ヒメバチの研究史

ヒメバチ科が、どのように研究されてきたかについてはTownes (1969)の優れたレビューがありますが、ここではその後の出来事も含め、ヒメバチの研究史の大まかな流れを説明します。私の主観ですが、ヒメバチの研究は3つのステップにわけられます。即ち...

 

① Gravenhorst (1829) 以降の記載分類

② Townes (1969, 1970a, b, 1971)による属体系の提唱とその後の記載分類

③ 系統解析を用いたTownes体系の見直しと、新体系の提唱

 

もちろん、①は既に過去のものですが、②の記載分類に関しては③に即しつつ、現在も継続的に行われており、もちろん今後も必要です。文中は敬称略で、個々の時代当時の日本および周辺地域の分類学に関する研究の流れも加えてみました。

 

ヒメバチの研究史

 

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 Gravenhorst (1829) 以降の記載分類

 

ヒメバチ科を初めて体系的に分類されたのは、Gravenhorstが著書、Ichneumonologia Europaea(全3冊)で行ったのが最初であり、1829年のことであった(Gravenhorst, 1829)。この中で、彼は13亜科61属を記録した。13亜科とは、即ち、Ichneumon, Tryphon, Trogus, Alomya, Cryptus, Pimpla, Metopius, Bassus, Banchus, Ophion, Hellwigia, AcoenitesそしてXoridesである。彼は主として後体節の形態でこれらを分類した(詳細はTownes (1969)を参照)。その後、Wesmael 1844年、ヒメバチを6つのグループに分割し、少し後の1855 年にHolmgren は、5つの亜科、Ichneumonides, Crypti, Ophionides, TryphonidesそしてPimplariaeを認めた。後者の体系は第二次世界大戦が終わる頃まで、多くの研究者によって使用されてきた。おおよその点でHolmgrenの体系に従って行われたThomsonSchmiedeknechtの研究は、ヨーロッパのヒメバチ研究に大きな影響を与えた。

 一方でFoerster1868年にその時点で知られていた全ての属の分類を出版し、36のグループに分割した(これらグループを彼は科と一致させた。また、この研究は多くの学名上の問題を残し、後の研究で多くの見直しを必要とした)。その体系に以後の知見を加え、Ashmead1900年に出版した属への検索表により、Foersterの体系はヒメバチの分類に影響を与えだす。彼の検索表では、Foersterが科と同等に考えていた各グループを族や族群としてHolmgrenの5亜科に含めたのである。しかしながら、Ashmeadは主に北米のサンプルに偏ったサンプルで研究を行った為、多数の分類学的問題も生じた。1895年から、1925年にかけ、多くの属が記載された。多くはCameron, Morley, Schmiedeknecht, SzepligetiそしてViereckによって記載され、ヒメバチの知見は格段の増加をみた。しかしながら、情報の伝達が今ほど進んでいない時代であり、当時の記載の水準もそれほど高くなかった(植民地より得た少数の標本のみで記載した例も多い)為、多数のシノニムをはじめとする分類学的問題を引き起こした。

一方、日本では、北海道大学の松村松年がヒメバチを幾つか記載していたものの、周辺地域も含め東アジアのヒメバチはまったくわかっていないといっても過言では無かった。松村松年の後継者である内田登一は1926年~1930年にかけて日本および周辺地域のヒメバチをおびただしい数記載し、東アジアにおける研究基盤を作った。その後も内田登一は戦後にかけて継続的に論文を発表し、多数の新属、新種を記載した。これら一連の研究により、日本においてヒメバチを研究する土台が整備された。しかしながら、右も左もわからない手探りの東アジア産ヒメバチの研究は、当然ではあるがやむなく多くの分類学的問題を産むこととなる。

前列左より、河野広道博士、内田登一博士、松村松年博士、渡辺千尚博士(画像提供:北海道大学総合博物館)
前列左より、河野広道博士、内田登一博士、松村松年博士、渡辺千尚博士(画像提供:北海道大学総合博物館)

 

このように、多くの研究者によって知見が蓄積されつつも、蓄積された多くの分類学的混乱も伴ったヒメバチの分類は難しく、問題を抱えた状態であった。そのような中、このような状況を一変させる研究者が現れる。

 

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 Townesによる属体系提唱とその後の記載分類

 

アメリカのTownesは第二次世界大戦の少し前より研究を開始し、そのような現状を解決すべく世界中の研究機関の調査を始めた。彼は各地の研究機関に所蔵されているタイプ標本を自ら調査し、文献調査と併せて彼自身の目で観察・比較を行った。その過程で多くのタイプ標本が指定され、また多くのシノニムが明らかとなった。戦後、彼は多くの論文を書くと共に、ヨーロッパを除く全世界のカタログを地域別に作成し、彼自身が設立した研究所であるAmerican Entomological Institute (AEI)より出版した。これには、地域ごとの属への検索表もついており、ヒメバチの研究における羅針盤のごとく役割を果たした。

Townesはカタログの作成に加え、もう一つヒメバチの研究において偉大な業績を残した。それは、1969年から1971年にかけて出版された全世界のヒメバチの属(ヒメバチ亜科を除く)をまとめたモノグラフである。Genera of ichneumonidaeという名の4冊のモノグラフがその後のヒメバチ研究に与えた影響は測り知れず、この年(19691971)はヒメバチ研究史上の大きなターニングポイントである。このモノグラフの特徴は、①過去の研究史を、文献目録をつけつつ、整理して記したこと、②全世界の種数と、予測される種数、推定解明度をはじめて述べたこと、③形態用語を図とともに説明し、形態用語体系の一基準を提唱したこと、④統一した基準で科から属への一連の検索体系を整備し、各属の表徴・形態を記載したこと、⑤当時、彼が所有した全世界のヒメバチ約50万頭の分類成果に基づく、未記載種も含めた種数の規模・各属の分布を説明したこと、そして何よりも、⑥ほぼ全ての属の詳細なスケッチ(全形図+属によっては部分図)をつけ、検索結果の確認ができること、これらの点で極めて斬新であった。これら図は、可能な限り属の模式種をスケッチしていることも、研究推進に大きく寄与した。このモノグラフ以降、ヒメバチの分類はTownesの体系を一応の起点として行うことができるようになった。

一方日本では、桃井節也がTownesとともに1965年に旧北区東部産ヒメバチのカタログを出版し、この地域の研究に一つの基盤を作った。以後、櫛下町鉦敏、中西明徳らとともに、日本や東南アジアのヒメバチが多数記載され、グループによってはかなり解明が進んだ。

 

ドイツの昆虫学者Hennigが提唱した系統分類の手法は分類学に理論的骨組みを与え、コンピュータの発達は、データ処理能力の向上を招いた。このような時代背景より、1970年代中頃、特に1980年代後半からTownesの体系を、系統解析を用いて見直す試みが始められた。ヒメバチの分類は次のステップに駒を進めるのである。

 

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系統解析を用いたTownes体系の見直しと、新体系の提唱

 

系統解析によるTownesの体系の見直しは主にGauldWahlによって推進された。Gauld1973年にコンボウアメバチ亜科、1984年にアメバチ亜科の系統解析を行い、いくつかの高次分類の見直しを行った。Wahlは幼虫形態の研究を併せ、高次系統の見直しを行い。Labeninae、ウスマルヒメバチ亜科、フタオヒメバチ亜科、ヒラタアブヤドリヒメバチ亜科、ケンオナガヒメバチ亜科などを検討し、Townesの体系におけるMicroleptinaeの検討ではトゲホソヒメバチ亜科、ホソヒメバチ亜科が設立された。1991年にTownesが亡くなり、AEIを引き継いだWahlは、Gauldとともにヒラタヒメバチ亜科(当時はフシダカヒメバチ亜科とされていた)を検討し、オナガバチ亜科、クチキヒメバチ亜科、ホソナガヒメバチ亜科がヒラタヒメバチ亜科より分割され、族の体系も見直された。ヒラタヒメバチ亜科内の系統関係は、近年までGauldを中心に幾つか検討されている。このように、20世紀の最後の20年間は、GauldWahl、この2人を中心に幾つかのグループの系統仮説が急速に蓄積された。

21世紀に入り、上記2人に加え、欧州の研究者が積極的に系統仮説を提唱しだす。特筆されることは、DNA塩基配列による系統仮説が増加したことで、特に英国のQuickeを中心としたグループによる研究は、形態形質による系統仮説と併せ、多くの新知見をもたらした。2009年にQuickeらによって発表された論文は形態・分子、双方のデータを用いてTownesの体系および以降の研究で扱われた高次分類を見なおし、多くの系統学的問題点をあぶりだした。例えばマルヒメバチ亜科を単系統群と認めると、メンガタヒメバチ亜科など、幾つかの亜科をすべてマルヒメバチとして扱わなければならないことが示唆されるなど、大きな体系の変更を予想させる結果となった。これら示唆された問題点は、指摘の真偽も含め、今後検討してゆかねばならないだろう。

最近の日本および周辺地域では、小西和彦はアメバチモドキ属を中心に研究を進め、WEBで日本産ヒメバチの情報普及を推進し、内田登一のタイプ標本を中心に、多くの分類学的処置を行った。松本吏樹郎は、ヒラタヒメバチ亜科を中心に、生態や幼虫形態に関する論文を報告し、これら報告に加え新種の記載も行った。近年では高須賀圭三とともにクモヒメバチの生態・分類を報告している。芳田琢磨は分類の難しいトガリヒメバチ亜科を中心に研究を行い、新種を記載した。

 

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系統解析の結果による高次体系の変更は、ここ30年の間で多数行われ、数年のスパンで見直し行われました。多くの系統仮説が提唱され、それらが慎重に検討され、より正確に近い系統が明らかになることは良いことですが、近年の系統を扱った論文は、変更後の高次体系の利用において重要な、検索手段の提供が不足しており、作業場の利便性が下がっている側面もあります。今後の分類研究では、系統関係の解明と自然分類という系統分類学の目的遂行に併せ、それを人間が利用できるようにすべく現実的な検索手段の構築も併せて意識してゆく必要があります。

近年、ヒメバチの研究をリードしてきたGauldDasch、Horstmannといった大物研究者が相次いで亡くなり、グローバル化した高度情報化社会は人の処理能力の限界を超えた情報の氾濫を現実のものにしています。これからの時代にいかにしてヒメバチの研究を進めてゆくか、過去の研究の良いところを参考にしながら、考えてゆく必要があるでしょう。